石川県能登半島地震で亡くなられた方(石川県238名)のご家族の皆様に、神様の慰め励ましがありますように。
13秒差でマグニチュード7.3相当が2回発生した可能性があるとのニュースを見ました。
まだ余震が続いています。被災された方々の不安がひとつずつ取り除かれていきますように。
集団避難をされた中学生の皆様が、一緒に避難している学生の方々や周りの方々と共に毎日を快適に過ごせますように。今回のことが新しい力となって将来の命の糧となりますように。
避難生活を送られている方々に、災害義援金や救援物資がじゅうぶん行き渡りますように。
コロナ感染症、インフルエンザ、寒さによる不調などから、守られますように。
停電はおおむね復旧したものの、断水は1ヶ月以上続くとのこと。
神様が皆様を顧みて、支えてくださいますように。
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2019年以来、久しぶりの咳喘息による長い体調不良でした。受動喫煙だけが原因だったのかと思うぐらい、久しぶりでした。祖父や妹の召された時期でもあり、いろいろ思い出されました。
祖父との思い出…1970年12月に56歳で召されました。
小さかったので、思い出がありません。両親ともに徳島生まれ、徳島育ちですが、葉瑠☆友幸は父の仕事先、大阪で1969年3月に生まれました。
祖父の体調が悪くなり、父は勤務先の仕事の段取りがあるので、母と共に一足早く徳島へ帰ってきました。
当時は長屋住まい。孫が泣くたびに胃ガンの痛みに耐えながら、屋外で子守をしてくれていたようです。
父と母は、いとこ結婚(*)なので、子どもの時からの交流があり、婿養子に入りましたが、祖父と父との関係は良かったのでしょう。「(祖父が亡くなる前に)さいごまでみんなの面倒を見ると、おっさんと約束した。」と、父が言っていたのを思い出します。
(*)父方の祖父と母方の祖父が異母兄弟。異母のふたりも姉妹どうし。父にとって祖父は、義父であり、叔父でもある関係。
妹との思い出…1973年5月に生まれ、1974年1月に8カ月で召されました。
妹のベビーベッドを覗いている葉瑠☆友幸の写真はありますが、妹の顔はハッキリ映っていません。
妹の写真は、看護師さんの手が下から妹の首を支えてくださっているお風呂での写真しかなく、着物を掛けた合成写真が遺影となりました。
母に聞いたところによると、「女の子は、おしっこの出るところとうんちの出るところのあいだに生理の出るところがある。その❝うんちの出るところ(肛門)と生理の出るところ(膣)❞のあいだに、もうひとつ穴が空いていて、そこから水分などが漏れ出ていた。オムツを替えても替えてもすぐに濡れた状態になっていた。」とのこと。「(赤ちゃんのため)体重が増えたら手術」の予定だったのですが、間に合いませんでした。最期は体内に水分が一滴も残っていない状態だったと聞いています。
いま言えるのは、妹は(はっきり見える形で)穴が空いていて、葉瑠☆友幸は(目に見えませんが)リンパ管形成不全でザル状態。ふたりとも奇形で生まれ、必要なものが漏れ出ている状態ということですね。
(葉瑠☆友幸自身の診断も1989年だったので、1973年当時に診断がついていたかは不明です。)
祖母との思い出…1997年4月に80歳で召されました。
1974年頃に市営住宅へ引っ越し~1982年に父の建てた現在の家に引っ越し。脳梗塞で召されるまで、ずっと4人家族。一緒に住んでいました。
母が躁うつ病で状態が悪い時、母に代わって家事を引き受けてくれました。
杢張り(もくはり)の仕事を長年していました。杢張りというのは、接着剤を塗った板に木目となる木を0.2ミリ程度に薄くスライスしたもの(杢・もく)をアイロンで張り付け、美しい木目を表現する技術のことです。祖母の働いていたところは、雇い主の大将と二人で、鏡台に杢張りをしていました。働いている所へ学校帰りなどに度々お邪魔した時、「良い時に来た。抜いて!」と祖母に言われ、作業中に指に刺さったトゲを針とピンセットで抜いていました。
家ではオセロゲームや、花札などをして遊びました。孫のジグソーパズルに、まったく合っていないところにピースを埋めて、「できたよ。」と言っていたのを思い出します。
葉瑠☆友幸が風邪の時も食事を摂っているのを見て、感心したように「すごいな。きちんと食べて。」と言ってくれていたのを思い出します。
父との思い出…2011年5月に66歳で召されました。
祖母、父、母、葉瑠☆友幸で旅行に行ったことが、良い思い出です。
思い立ったら即実行で、ゴールデンウイークの初日に突然「行こう!」ということになり、母や祖母が準備に大慌てでした。急いで炊飯器からご飯を出して、お握りにしていました。泊まるところも予約していないので、レンタカーを借り、運転する父以外は、倒した後部座席で寝ながら移動という日もありました。父しか運転できないのに、「次は〇〇行くか? もうちょっと足伸ばして〇〇行くか?」よほど運転や旅行が好きだったのでしょう。葉瑠☆友幸が「〇〇と書いてあるのが見えたら、言えよ。」との父の指示を受け、助手席で地図を見ながら、道路標識を見ながら、合図していました。
父は出張先で指を怪我した時も、救急車の要請が1台で済むように、応急処置だけで、淡路島~大鳴門橋を下りたところまでトラックを運転してきて、鳴門ICで救急車を呼んだようです。トラックは会社の人が取りに行ってくれましたが、高速道路の代金を負担しなくて済むようにと配慮していたようです。あとで聞いて驚きました。機械の試運転中に巻き込まれ、足で蹴飛ばして機械を止め、指はあとすこしで切断かもというほど皮膚がめくれあがっていました。太ももの皮膚を移植したように記憶しています。
葉瑠☆友幸が蛋白漏出性胃腸症の病気を疑われたとき(診断前・帰りの車内で)、「血が濃いとか関係あるのかなぁ(?)」とポツリと父が小声で言ったのが聞こえました。医者には聞いていないと思います。葉瑠☆友幸自身は、二人がいとこ結婚であることは知っていましたが、「いまさら、そんなこと言っても、過去(生まれる前)に戻ることはできない。」と思ったぐらいで、両親が結婚したことが悪いと思ったことはありません。葉瑠☆友幸も両親も、面と向かっては何も言いませんでした。
(いとこ結婚・血が濃い云々、および病気との因果関係については、実際に検査をしたり、なにか書物などを調べたりしたわけではありません。「父や母が気にしていた」というだけで、根拠はありません。出生時のデータもありませんし、今後も調べる気持ちも方法もありません。)
日本聖書協会『聖書 新共同訳』より引用
エフェソ4章7節「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」
ヨハネ9章3節「イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」」
母との思い出…2020年2月に73歳で召されました。
葉瑠☆友幸が入院した時、母のハイヒールで歩く足音が待ち遠しかったです。病院の廊下によく響いていました。
母の闘病中に通院に付き合った日は、バスの時間まで1時間ほど待つあいだに、敷地内の喫茶室でお昼を食べ、30分かけて駅まで帰ってくると、そごうの地下でホットコーヒーを飲んで、そして家近くまでまたバスに乗って帰ったことを思い出します。精神科に入院時も、その喫茶室まで家族同伴での外出許可が下りたとき、葉瑠☆友幸が病室へ着くより先に「たこ焼き、食べてもいい?」と主治医に聞いて、オッケーをもらっていたのが良い思い出です。
母はドライヤーが苦手で、家では自然乾燥。2019年1月の入院時に背中まで伸びていた髪を、院内の美容院で肩ぐらいまでカットしました。同年3月の入院時は、母の髪を葉瑠☆友幸がドライヤーで乾かしましたが、カットしてくれていたおかげで楽ちんでした。
「〇〇ジュース▲本、コーヒー▲本。」という注文が、スマホの留守番電話の録音に毎日、朝起きてから着くまでにあり、つぎつぎと再生しては、届けていました。口内炎ができたときには、アイスクリームを届けました。食べているときに、看護師さんが入ってきて、「いいもの食べてるね。」と驚いていました。
また入院中にユリの花を折り紙でたくさん折っていたことも思い出されます。手のしびれがなければ、LINEの使い方を教えたかったです。
葉瑠☆友幸が生まれたころから、母が躁うつ病になり、さらに葉瑠☆友幸や妹の病気のこともあり、両親ともに苦労したと思います。けれども、いとこ結婚したことで周りからいろいろ言われたりしても、父は祖父との約束を果たし、家族を守り抜きました。母は自分を責めて心が疲れた時も多かったことと思います。祖母はそんな母をサポートして葉瑠☆友幸の助けとなってくれました。
葉瑠☆友幸には言えないことが、両親や祖母にはあったかもしれません。
両親には言えないことが葉瑠☆友幸にあって、祖母にだけ打ち明けたこともあるかもしれません。
家族の生きている間には気づかなかったけれども、そんな気がしています。
いろいろあるなかで、助け合って、守り育ててくれたのだと思います。
いま生きづらさを感じている方に、身近な関係でなくても、寄り添ってくださる人が与えられますように。
Ⅱコリント12章9~10節「主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。…なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」
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1月6~7日の冬期聖書集会には、スカイプ参加できました。県外から16名の方が来てくださり、徳島聖書キリスト集会の集会場とスカイプの併用で恵まれた集会となりました。
主題「御言葉の飢饉を克服する道」。読書会「アモス書を読む」では、1章から9章まで9名の方が決められた担当箇所について、10分間ずつ、お話しくださいました。そして25分間、吉村さんがまとめとして話されました。
葉瑠☆友幸は咳き込む時期だったので、参加者の名前の返事をするとき、自己紹介のときはどうにか言えたのですが、感話は「次の方へ、お願いします。」となりました。感話の時のタイムキーパーも、録音で「時間です。」と言わせていただきました。しかし画面越しに多くの恵みをいただくことができました。
アモス書8章11~12節「見よ、その日が来ればと 主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく 水に渇くことでもなく 主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。人々は海から海へと巡り 北から東へとよろめき歩いて 主の言葉を探し求めるが 見いだすことはできない。」
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今月22日頃から、またお腹の不調が再発しました。水様便まではいかないのですが、軟便。
トイレに行きたいと思ったら、もう待ったなし!という感じです。
きょう、大学病院の消化器内科の診察で、年末からの経過(咳喘息、下痢)を説明。
どうやらずっと下痢が続いていたところへ、咳喘息になり細菌感染を抑えるため抗生剤レボフロキサシン錠 500mgを7日間服用したために、腸内の善い菌(善玉菌)まで一掃されたみたいです。「しばらくかかるね。」とのことでした。先週、大学病院の消化器内科でしていた、便の細菌検査は異常ありませんでした。
整腸剤ミヤBM錠 毎食後・1回1錠を処方してもらいました。薬の名前に聞き覚えがあると思ったら、母も抗がん剤治療による下痢の時、服用していました。
以前にも同じようなことがあったようで、2015年5月9日の記事に書いてました。抗菌剤ジェニナック錠という薬の時も、食事のたびに軟便に悩まされたようです。
咳喘息の症状は、昨年12月26日から4週間かかって、やっと治りました。
胸水からか、咳喘息の後遺症(?)か、外を歩いていると、なぜか息苦しさを感じます。
そんなとき、立ち止まって空を見ると、明るいお月さん、きれいな夕焼け、そばには木星、知らぬ間に鳶(とび)まで。(*^_^*) 休憩しながら、パチリと撮影タイム。
息苦しさの原因は、次回大学病院の呼吸器内科の診察日の2月15日に、レントゲン検査すれば分かると思います。
今回のブログはすこし思い出を書くだけのつもりが、心の内をたくさん書いてしまいました。
皆様もお身体ご自愛ください。