2024年10月16日 (水)

パソコンと共に。持病と共に。そして、神様と共に。

こんにちは。
体調は守られていますか。
葉瑠☆友幸は元気です。

今回は、大まかに いままでのことを振り返りたいと思います。

〇1969年3月(0歳)
 浮腫で左右の足の太さが違うため、生まれた病院でゴールデンウイークまで入院。
 20歳まで、原因・病名は分からずじまい。

〇幼少期 三日ばしか
 小学4年まで 小児喘息
 小学生の時から アレルギー性鼻炎
※喘息は父方の祖父からの隔世遺伝。治ってヤレヤレと思っていたのに、33歳で咳喘息になってしまいました。

〇1982年(13歳)
 8月 甲状腺機能低下症の診断がつきました。
 ※浮腫の原因を調べるために入院しましたが、そちらは分からずじまい。

〇1989年(20歳)

 7月 浮腫の原因、蛋白漏出性胃腸症の診断がつきました。食事療法の開始。
 10月 高校卒業後から働いていた会社を退職しました。
   この頃に、水ぼうそうにもなりました。

〇1990年(21歳)
 ワープロを購入。再就職のために資格を取るため、父が購入してくれました。

〇1991年(21歳)
 2月 データ入力の会社に再就職。
 
〇1997年(28歳)
 4月13日 母方の祖母が80歳で亡くなりました。
 8月21日 はじめてデスクトップパソコン(Windows95)を購入しました。
 8月28日 5ヶ月の入院。左側の胸水が出現。じっくり検査。ということになりました。
 ※はじめて買ったパソコンがなかなか使えなくて残念でしたが、この入院でいろんなことが分かりました。
  大学病院・消化器内科の外来で診てもらっている主治医は、この時からお世話になっております。

〇1998年(29歳)
 5月 データ入力の会社を退職。

〇1999年(29歳)
 2月 新居用にノートパソコン(Windows98)を購入。
 3月 誕生日の前日に結婚

〇2002年(33歳)
 7月 咳喘息の診断。左側の胸水が増悪。胸腔ドレーン3回のあと、左手の浮腫が出現。

〇2004年(35歳)
 3月 デスクトップパソコン(Windows XP)を購入。
 10月16日 徳島聖書キリスト集会に導かれる。
        1999年12月にクリスマス特別集会、つゆくさ集会に参加しているのですが、その時は信仰に至らず。

 日本聖書協会『聖書 新共同訳』より引用
 詩編119編105節「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。」
 同 130節「御言葉が開かれると光が射し出で 無知な者にも理解を与えます。」
 ※入会した2004年10月16日の聖書箇所です。

〇2008年(39歳)
 5月 ブログ開始。
 7月 ノートパソコン(Windows Vista)を購入。

〇2009年(41歳)
 9月 右側の胸水が出現。

〇2010年(41歳)
 8月 右手の浮腫が出現。

〇2011年(42歳)
 5月 父が66歳で亡くなりました。

〇2012年(43歳)
 10月 ノートパソコン(Windows 7)を購入。

〇2013年(44歳)
 9月 祖父・妹・祖母・父の遺骨をキリスト教霊園に移す。

〇2014年(45歳)
 12月 離婚。

〇2016年(47歳)
 5月 ノートパソコン(Windows 10)を購入。

〇2020年(50歳)
 2月 母が73歳で亡くなりました。

〇2021年(52歳)
 4月 中心静脈ポートの埋め込み。

〇2022年(53歳)
 3月 右側の胸水が増悪。ステロイド治療を開始。

 8月 ノートパソコン(Windows 11)を購入。

〇2023年(54歳)
 4月 中心静脈ポートの埋め込み。
 5月 ホームページを開始。

20歳で「蛋白漏出性胃腸症」の診断がついて、仕事を辞めることになり、失業保険の手続きに行った職業安定所の人のアドバイスで、パソコン・ワープロの資格を取りました。

持病ともパソコンとも長い付き合い。もうベテランです。
信仰は何年持っていてもベテランということは言えませんが、丸々20年が経ちました。

持病の症状が増えるたびに、パソコンでいろいろ検索したり、入力したり。
数年ごとに代替わりして、数々のパソコンに大変お世話になっております。

また、持病に関することにのみ使っていたパソコン、利用頻度も使う内容も様変わりしてきました。
テキスト入力。栄養計算。喘息日誌。家計簿…。
伴奏の再生。伴奏の入力。写真の整理。スカイプ。ブログ。ホームページ…。

これからも、自己管理のため、神様のお働きのために、用いられますように。

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2024年8月14日 (水)

阿波踊りの思い出、詰め込みました

35℃以上の酷暑が続いていますが、お変わりないですか。
葉瑠☆友幸は、いまのように猛暑・酷暑というようになる前(2018年頃?)までは、汗をかくこともなく、冷房も苦手でした。家族と冷房の部屋にいる時は、長袖を着て、という状況でした。

それが猛暑、真夏日が多く、気温も高くなった近年は、人並みに汗をかき、除湿30度設定+扇風機という部屋で過ごしています。設定を見ると、まだ寒がりのほうかもしれませんが。

なので、甲状腺機能低下症は、正常だと思っていましたが、血液検査の結果、低下ぎみだということで、
チラーヂンSが1日1回・朝食後 2.5錠 ⇒ 3錠 になりました。
貧血の注射も続けています。

それ以外は、病院と買い物以外、自宅にいて、礼拝などすべての集会に参加でき、守られております。

阿波踊りの思い出。。。

8月12日~15日、四日間ある阿波踊り。
4日のうち、1日は雨に降られるのですが、今年は大丈夫そうですね(*^_^*)
雨に降られると、小雨決行なので、太鼓や三味線にビニール袋をかぶせて、浴衣の着替えもなく、大変だと思います。

無料演舞場では、間近で写真を撮ることができ、楽しかったです。
<10年ぐらい前の情報です。いまは取り決めがあるかも。
葉瑠☆友幸が見に行った、新町、元町、両国橋 の無料演舞場と、東新町アーケードのことです。>

18時から通行止めにして、2車線の道路へ踊り込みます。
鉄パイプの組み立ては数日前から始まり、板を渡して、桟敷席の完成です。

連というグループに分かれて、踊ります。
先頭の人が連名の書かれた思い思いの高張提灯を持って、そのあとを連員の方の子供かな?
まだ踊り方もかわいい、ちびっこが付いていってます。

浴衣に編み笠の女踊り、法被を着た男踊り。女性の人の男踊り。
まとまって踊ったり、円になって踊ったり、左右に分かれたり。
鳴り物に合わせて、早くなったり、停止したり。
最後尾の鳴り物は、笛、三味線、太鼓、鐘。

かけ声は、「踊る阿呆に見る阿呆、おなじ阿呆なら、踊らにゃソンソン」「ヤットサーヤットヤット」など、連ごとにそれぞれです。踊る阿呆(連に入り踊ること)見る阿呆(見物客)
特定の連に入らずに、にわか連と言って、その日に集まって、踊らせてくれる連もあります。

☆●□◆▲▽★○■◇☆●□◆▲▽★○■◇☆●□◆▲▽★○■◇

大学病院の先生方も学生さんと一緒に、連を作っています。
「にないか連」(消化器内科)、「にげか連」(消化器外科 )、「栄養学連」(栄養士)などなど。

入院中に、大学病院のロビーで「にげか連」が踊っているのを見に行きました。
消化器外科の主治医はお忙しいので、踊りが終わってから、ロビーに来られました。

消化器内科の先生は、演舞場近くで、連の移動中に会いました。
お二人とも、踊っている姿は見えず。。。

☆●□◆▲▽★○■◇☆●□◆▲▽★○■◇☆●□◆▲▽★○■◇

結婚後に母と同居する前まで、住んでいたところの斜め前が、徳島大学の事務局の建物でした。
踊り期間になると、そこで練習している音や声が聞こえてきました。
そのかけ声は、「末は博士か、やぶ医者か。」
やぶ医者は困ります。良い医者になってください!!と、部屋の中で呟いてました。

独身の時は、毎年、家族と見に行っていたと思います。
いつも2日間くらい、行っていたと思いますが、その頃はブログをするとは思っていませんでした。
ブログを始めてからは、演舞場にあまり行ってない!! なので、使える
写真がない!!
特定の人を大きく映しているのが多い。友人のアップとか、おもしろいポーズの人とか(^_-)-☆

4人で見るときは、16時ぐらいから、お握りとお茶を持参して、祖母と母と出かけます。
早めに行かないと、バスも満員で乗せてくれなくなります。
臨時便も出るのですが、乗れないよ~と、運転手さんに手を振られます。
無料演舞場の席を取り、父は仕事が終わってから合流。

母は、やっこ踊りが好きでした。
踊り手2人がコンビを組み、奴凧(やっこだこ)と糸を操る人を演じ、鐘の音に合わせて駆け回り、疲れた奴凧は道路上に寝てしまうのですが、少しずつ少しずつ起き上がり、さいごは観客とほかの踊り手のかけ声で元気になります。

祖母も割と浮き助(ウキウキ浮かれて)で、帰り道に踊ったりして、母が恥ずかしい!!と、止めてました。

父と葉瑠☆友幸の二人で見に行くときは、夕食後から出かけて、空いている席に潜り込んでいました。
いちおう、葉瑠☆友幸は女の子なんですが、お構いなしに後ろ側に組まれた鉄パイプをよじ登っていったり、前からお邪魔したり。ズボン姿で子供だったからできたことです。

ある時、父が踊っている人に、ちょっかいを出して、一度、出口まで一緒に踊らされました。(笑い)
「カメラ、カメラ~」と言って、葉瑠☆友幸にカメラを手渡すのが精いっぱい。
葉瑠☆友幸は、周りの人と大笑いしてました。フゥフゥ言って、席に帰ってきました。

父は一人でも、自転車で出かけるほど、阿波踊りが大好きでした。踊る阿呆にはならず、見る阿呆でした。

企業連と言って、会社で作っている連もあります。また芸能人の方も来られます。
元夫は、追っかけ状態。事前にチェックして、出かけてました。

元夫と、高校の時の親友と、カラオケBOXで歌ってから、阿波踊り見物に行ったことも良い思い出です。
親友の息子も加わり、元夫と追いかけっこしている後ろから、葉瑠☆友幸と親友はゆっくりと付いて行ってました。
こどものパワーに付き合わされ、元夫は汗だくでした。

小学生の運動会は、いつも最後のプログラムは、阿波踊りでした。
学校近くのラーメン店の人が連長をされている連の方々が、いつも鳴り物などのお手伝いしてくださいました。

近年は、葉瑠☆友幸は、テレビやネットで見るだけになりました。
人込みを避けなくてはならないのと、演舞場の移動は、足がだるくなるので、やめました。
なんとなく見たくなったら、阿波踊りの中継サイトへアクセスしています。

猛暑がまだしばらく続きますが、体調が守られますように。

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2024年7月 3日 (水)

長年、親しくしてくださった方が召されました

梅雨の時期、湿度が高くて、暑いですね。35度以上の地点も出てきており、徳島でも熱中症警戒アラートが出ています。
水分補給をじゅうぶんに、体調が守られますように。

5月23日の呼吸器内科 診察
現在、右の胸水貯留は、600ml。ステロイド内服は朝食後5mg。経過を見て、半年~1年毎に薬の量を減らしていくとのことでしたが、「減らさずに、このまま5mgで、ずっと服用を続けるほうがいいと思う。5mgという量は副作用は少ない。」と、主治医に言われました。

5月29日の消化器内科の診察
「ステロイド内服による免疫低下だけでなく、持病による免疫グロブリンの漏出もあるので、あらゆる感染症に対するリスクは高い状態が続く。(集会は)ステロイド内服が終了するまで、この先も自宅で参加できる方法でするように。」と、主治医に言われました。

貧血の注射は、当面 続けることになりました。
ヘモグロビン値が10.6(正常値11.5~15.0) 血清鉄が12(正常値40~188・病院により異なる)

日本聖書協会『聖書 新共同訳』より引用
詩編139編23・24節「神よ、わたしを究め わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。御覧ください。わたしの内に迷いの道があるかを。どうか、わたしを とこしえの道に導いてください。」

葉瑠☆友幸がパソコンを使い始めたのと、持病の診断がついたのが同じ二十歳頃で、最初は栄養計算をしたり、持病のことを入力するのに使っていました。いまもはじめて関わる先生に「蛋白漏出性胃腸症、はじめて聞いた。」と言われることが多いので、持病のことを正しく伝えるためには、いろいろ把握しておく必要があり、主治医から聞いたこと、調べたことを入力しています。
葉瑠☆友幸に生じる症状は、ほとんどこの病につながっているため、やっかいな病気という思いにとらわれてしまいます。


持病のことや、いまできないことに目を向けているとき、気持ちが落ち着かなくなり、いつも『何をしているんだろう』と思います。人間的な思いで違う方向を向き、迷っている状態だと思います。
それにもかかわらず、神様は御言葉により力づけてくださり、3月まで続いた息苦しさをいやし、昨年のお盆から続いたお腹の不調をいやしてくださいました。

神様のほうにしっかり目を向けて、パソコンを使うにしても、神様の御意志にかなったことに使い、御国へ向かって真っすぐに歩んでいきたいと思います。

葉瑠☆友幸は、小さい時は長屋住まい。祖父母(母方・父は婿養子)と同居だったのかどうか、聞いていません。
父は中学卒業してから大阪で働いていて、両親は結婚後も大阪で暮らしていました。

祖父の体調が悪くなり、大阪から徳島に帰ってきたと聞きました。
祖父が亡くなったとき、葉瑠☆友幸は1歳9ヶ月。外で抱っこしたり、肩車したりしてくれている写真があります。

妹がいたのは、長屋の時だと思います。妹が亡くなったとき、葉瑠☆友幸は4歳10か月。覚えていません。
妹が寝ているベビーベッドを葉瑠☆友幸がのぞきこんでいる写真。市営住宅では置くスペースなかったと思います。
また妹が亡くなった後、近くの貸本屋さんが「
ひとりはつらいだろう。気をまぎらわすために、(葉瑠☆友幸が)幼稚園に行っているあいだ、店に来ませんか。置いてある本を読んでいたらいい。」とバイトさせてくれたと、聞いたことがあります。
1974年3月の誕生会の写真は、市営住宅の前で映しているので、妹が亡くなって数ヶ月のあいだに引っ越したのだと思います。

市営住宅には、祖母と両親の4人で住んでいました。
父が市営住宅の抽選に
友達の付き添いで行き、たまたま申し込んだところ、当たったとのこと。
そして1982年1月に、おなじ町内にあった、ある会社の跡地を分譲していた土地を父が購入。
一戸建てを新築して、4人そろって引っ越し。
いまは葉瑠☆友幸ひとり、そこに住んでいます。

住んでいた市営住宅は5階建てで、左右の玄関に共有の階段が3つあり、30世帯ある建物。
向かい側には、10階建てがあり、72世帯。その間に、公園があります。
滑り台、ブランコ、シーソー、砂場があり、タコの形をした滑り台、コーヒーカップでぐるぐる回ったり。。。
大人の方々が自分の子供も近所の子供も見守ってくださっていて、子供たちものびのびと遊ぶことができました。
いまでも市営住宅に住まれている方は、葉瑠☆友幸のことをよく覚えていてくださり、声をかけてくださいます。

マタイ18章10節「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」

  

70歳代の女性の方で、長年、声をかけてくださっていたFさんという方が、先月16日に召されました。
その方は目がお悪いので、葉瑠☆友幸の話す声で、そばにいるのに気づくと、いつも「あらっ。はるちゃん。元気にしている?」とか「若いから、明るい服 似合うね」とか言って、声をかけてくださっていました。

最近では、葉瑠☆友幸が行きつけのお店(*)で、手話賛美の練習をしていたところ、「はるちゃん、踊りの練習しているの?」と聞かれたので、「手話で讃美歌を歌う練習している」という話をしました。
((*)近くのお好み焼屋です。その時は、親しい、
なじみ客ばかりでした)

旅行に行かれて、お土産をお友達の家に持って行き、帰宅したあと、おりかえし、そのお友達が訪ねてきたときには、応答がなく。。ということだったようです。

リュックを背負い、徒歩で、近所の買い物にも行かれ、近くのお好み焼き屋にも行かれ、日々を楽しんでおられました。

闘病の苦しみから解放され、神様の御許で安らかに。
母や葉瑠☆友幸を見守ってくださり、ありがとうございました。

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2024年5月16日 (木)

神様に賛美

こんにちは。体調は守られていますか。

5月12日の「心に残っている御言葉」でお話しした内容を掲載します。

日本聖書協会『聖書 新共同訳』より引用
詩編 51編17節「主よ、わたしの唇を開いてください この口はあなたの賛美を歌います。」

胸水の関係で会場で賛美するときは、息が続かなかったり、咳が出たりするので、いつも小さい声になっていました。それでも会場で参加できていた時は小さい声なりに賛美したり、手話賛美したりしていたのですが、ステロイド治療のためスカイプでの参加となり、2年が経ってしまいました。

今年始めの咳喘息のあと胸水が増え、お腹の不調も続き、2月3月は気持ち的に沈んでいました。
イースター特別集会が近づいた頃に「葉瑠☆友幸も賛美したいけれど、会場にまだまだ行けない。」と武米姉に話していたら、「あなたの録音に合わせて、賛美するよ」と言ってくださいました。FS姉も「加わりたい。」と言ってくださり、「天なる喜び」を3節まですべて賛美することができました。神様へ向かって一緒に賛美できたことに感謝です。録音した葉瑠☆友幸の声が小さくて、お二人に迷惑をかけ、司会者にもお手間をおかけしましたが、録音方法をいろいろ試しつつ、また共に賛美したいです。

録音という方法にすると、息継ぎの音が入っていたり咳で中断したりしても何回も練習ができ、いまどのように歌えているか、声量がなく音を伸ばせていないところなども分かるので、これからも録音しながら賛美したいと思います。何度も録音を繰り返しながら練習して、すこし息切れが軽くなった気がしていたところ、イースターのすぐあとの4月4日の診察では、胸水の量は700mlから600mlぐらいに、やや減っているとのことでした。話をするときと、歌うときとは、声の出し方が違い、大声で賛美することはできないですが、免疫力を上げるためにも息切れを軽くしていくためにも、無理のない音域に合わせていろんな曲を賛美していきたいと思います。

集会の武米姉がイラストを描いてくださったので、葉瑠☆友幸が撮影した四季の花々、それに楽しく賛美しながら出かけているイメージを書いてみました。

近況報告です。
前回のブログ~4月末まで、あいかわらず軟便・下痢が続いていました。

4月3日大学病院の採血結果で、貧血の項目(ヘモグロビン値、ヘマトクリット値、MCV、MCH)が4つとも低く、ヘモグロビン値が9.6(正常値11.5~15.0)でした。
血清鉄やトランスフェリンなどをかかりつけ医で追加採血しました。
鉄欠乏性貧血です。そのときのヘモグロビン値は8.2血清鉄が7(正常値48~170)。トランスフェリンは正常値でした。いままでもヘモグロビン値など低かったのですが、今回はさらに低下したようです。
貧血の症状…
めまい=ありませんでした。
息切れ、胸水、浮腫=蛋白漏出性胃腸症の症状と重複していて、これらはずっとあるので、どちらが原因か分かりませんね。
鉄分の注射「フェジン静注40mg 2ml+ぶどう糖注20% 20ml」を3回しました。
かかりつけ医でのアルブミン点滴と同じ日に、静脈ポートからしてもらえました。あとは様子を見ます。続け過ぎると、肝機能が上がるとのことです。
内服に変えるとの話もありましたが、ステロイド内服の期間が長いので、胃もただれているかもしれないので、不足のときは注射で補っていきます。
次回、5月29日の結果を見て、さらに注射するかどうかは決まります。

鉄を摂る食材はいろいろあると思いますが、軟便・下痢状態だったため、「鉄+コラーゲン」のウエハースを1日2枚、食べるようにしました。人からの勧めで、もろみ酢も1日30ml飲むようになりました。

散歩途中で止まらずに、遠くまで歩けるようになりました。
5月の始めごろより、お腹の不調が改善されました。9ヶ月、ながかった~。
今月は、11日に3回(やや軟便→軟便→下痢)不調だっただけで、あとの日は1日1回、普通便です。
徐々に食事療法のメニューに戻れるようにしていきたいと思います。

鉄分補給、もろみ酢、賛美による免疫力アップ…どれが効いたのか、先生も葉瑠☆友幸もよく分からない『???』。

ホームページも公開一年が過ぎました。
食事ページを更新しようと、パソコン作業中。楽しみにしていてください。

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2024年3月15日 (金)

耳を開いてくださった神

こんにちは。体調は守られていますか。

日本聖書協会『聖書 新共同訳』より引用
詩編40編7節「ただ、わたしの耳を開いてくださいました。」
使徒言行録9章18節「たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。」

神様の御声が聞こえないのは、耳が詰まってるから。神の業が見えないのは、目に鱗のようなものが張り付いているから。
心から求めない限り、神が選び一方的に与えない限り、人間はみんな霊の耳が閉じていて、霊の目も閉じています。
だから、霊の耳で聞くことができるように、一方的な神様の業で、耳に穴を開けてくださいました。

詩編19編2節「天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。」4~5節「話すことも語ることもなく 声は聞こえなくても、その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう。」

さまざまな星々、夕焼けの美しさ、風の音などの中に、神様の意図が込められていることを感じる。
耳に穴を開けてくれたら、神様の霊的な言葉として、少しずつでも聞こえるようになります。

イザヤ書35章5節「そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。」
Ⅰコリント 1章2節「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。」

神様の大いなる驚くべき業によって新しく生まれ変わり、見えるようになり、聞こえるようになります。
耳の口が通じて、神の声が聞こえる者となれますように。

 

耳の聞こえ といえば。。。
病気によって、聞こえづらくなることもありますね。
葉瑠☆友幸も、5年ほど前に、爪や耳かきで傷つけてしまい、膿がにじみ出て、外耳炎になりました。
綿棒で拭き取って、よく清掃した後、「レダコート軟膏0.1%」を塗り、耳鼻科での消毒・治療で細菌の増殖を抑えていきました。
治療中は、綿棒を入れていることもあり、まさに耳の入口が塞がれた状態でした。

難聴のため、(部分的に)聞こえない、聞き間違うということもあります。
中学生のときの身体検査で、時計のコチコチという音が聞こえたら手を挙げるのですが、葉瑠☆友幸はいつまでも手を挙げませんでした。
教室の中がシーンと静まったのを思い出します。保健室へ行き、耳鼻咽喉科で聴力検査を受けました。
電話は右の耳で聞くようにと言われました。口の動きで言葉を読み取るように言われましたが、むつかしくて無理でした。

それからは、学校では教卓の近くが指定席でした。席替えをしても周りが変わるだけでした。
周りが騒がしいと、聞き取りにくい、聞き間違うことがあります。

今の状態は、補聴器を使うと、すべての音域が聞こえないわけでないので、逆に騒々しくなる。
生活に困らないなら、使わなくて良いとのことでした。

そのことを知ってから、聞き間違えないように、メモをよく取るようになったと思います。
騒々しい場所で、大事なことを聞く必要があるときは、相手に近づくようにしています。

 

55歳となりました。集会の姉妹からのプレゼント。お花をもらったり、アオサギの写真をもらったり。
KK姉はYK兄と夫婦デュエットで、ハッピーバースデーを歌ってくれました。
きょうは今年に入ってはじめて、すこし遠くまで歩くことができました。
おかげさまで、蜂須賀桜に出会えました。セキレイが散歩しているのにも出会えました。
モクレンの花も満開です。山の向こうに陽が沈むところでした。

かかりつけ医の 点滴の日だったのですが、大先生が出かけられるところでした。
息子の若先生に外来診療を任せてから老健施設の往診を担当されているので、最近あまりお会いできなくて、「いのちの水」誌も看護師さんに預けていました。久しぶりにお会いでき、お話ができたこと感謝です。

また別の病院ですが、父の肺がんが疑われた時、母がリチウム中毒で意識障害になった時に、お世話になった女医さんともお会いでき、母が亡くなったことなどお話しできました。こちらの病院は、インフルエンザの入院で葉瑠☆友幸もお世話になりました。
感染症の入院または整形外科や外科の診療で受診しないかぎり、会う機会もありません。ちょうど出かけられるところへ、出くわしました。

神の恵み、神の御計画がいろいろあった誕生日の夕方でした。

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2024年2月27日 (火)

歩く道

こんにちは。体調は守られていますか。

日本聖書協会『聖書 新共同訳』より引用
章節「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

現在は、前回のブログで書いたとおり、息苦しくなることもあって、散歩ができていません。
症状のない時は、今日は東西南北、どちらへ向いて行こうかな~と、30分弱、散歩していました。
息苦しさや足の浮腫もあり、健康な人より歩くスピードは遅く、トボトボ、ゆっくり。
途中で写真を撮影したり。筋力増強にはなっていないと思います。(笑)

どのぐらいの距離を歩いているのか、コースによって、どれだけ違うのか。Googleマップで調べてみました。

毎日、最低限歩く距離は 350m。5分くらい。いま この短い距離で、途中で息苦しくなってます。

自転車で雨の日、合羽を着るには、ダウンジャケットが着れず寒いので、
近くの病院~かかりつけ薬局経由で帰るときは、1.1km。
帰って来た時、息苦しかったです。

散歩がまったくできていないので、その日は頑張って歩きました。

南へ向かって、見晴らしの良い公園経由で帰るときは、1.5km。
昨年5月にアオスジアゲハに会えたところです。

北へ向かって、ベンチの上の桜に会えた公園経由で帰るときも、1.5km。

近くの病院の帰り、南側の橋を渡って川沿いを歩き、そして北側の橋を渡って帰るときは、2.2km。

いちばん遠いコースは、もう一つ東側の信号まで遠回りをして、見晴らしの良い公園経由で帰るときは、2.6km。

地元をウロウロしているだけですが、あっちこっち回って、楽しんでいます。

徒歩の場合は、自由気ままに道を曲がっても、どうにか目的地に着くことができますが、
車の場合は、一方通行だったり、進入禁止だったりあるので、ナビや地図だけでたどり着くのは大変ですね。

葉瑠☆友幸の家にはじめて来られる方も、ナビを頼りに来てくださっていて、
『近づいた。もうすぐ着く!!』と思ったら「通り過ぎた~」と、言われてました。
(葉瑠☆友幸が車を乗らないので、一方通行の道などを知らず、細い道への説明は分かりづらいみたいです。)

宅急便の運転手の方も、道を間違えて入り、分からなくなり、電話がかかってきました。
固定電話だけのときは、説明が大変でしたが、いまはスマートフォンがあるので、
通話のまま外へ出られるので、説明しているうちに、会うことができました。
(一日に何十件も回らないといけない職業の方
や、何時までと行く時間が決められている職業の方は、
ナビや地図ですばやく見つけないといけないので、大変だと思います。運転が守られますように。)

イエス様が導いてくださる道は、途中で道が分からなくなることなく、御国へと続いています。
道からそれてしまっても、神に立ち返るならば、罪を赦してくださり、正しい道を歩けるようにしてくださいます。
信仰から完全に離れて迷ってしまわないように、イエス様が導いてくださる道を歩んでいけますように。

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2024年2月22日 (木)

母の召天4年

こんにちは。体調は守られていますか。
葉瑠☆友幸は、下痢と息苦しさが続いています。
主日礼拝と夕拝、家庭集会にはスカイプで参加できています。

2月6日(火)~8日(木)の瀬棚聖書集会にスカイプで参加。主題「死と永遠の命」
第50回ということで、瀬棚の方々の証しをお聞きしました。
プログラムごとに賛美が2曲ずつ選ばれ、ぜんぶで18曲。瀬棚聖書集会の方々の賛美を聞くことができました。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』より引用
創世記1章2節「神の霊が水の面を動いていた。」
エセキエル書27章4~5節「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。」
神の霊…神からの風(divine wind)が吹いてくる。創世記のはじめから新約の時代まで続き、そして信仰を持ち続けている限り、私たちのところまで吹き続けています。
 
2月11日の主日礼拝で、「心に残っている御言葉」として、葉瑠☆友幸が話した内容に、加筆しました。

詩編3編6節「身を横たえて眠り わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。」

父の定年退職と同時に父が働いていた工場は閉鎖されましたが、アルバイトしていた鉄工所で、やり残した仕事、機械の点検・修理を続けていました。そんなときに肺癌が見つかり、閉塞性肺炎も起こしていたので、発熱や胸の痛みで身体が思い通りにならず、入院になりました。その仕事の取引先の方が富山からお見舞いに来てくださり、図面を広げて機械の話などをして帰られました。それから抗がん剤治療を続けていましたが、転移性脳腫瘍の悪化のため、車の運転も禁止されました。
父が車を処分して数か月後、亡くなる一カ月前のことですが、「倉庫の位置を移動する。そのほうが明るいだろ。」と言って、父はアルバイト先の鉄工所から倉庫を持ち上げる手動式の道具を借りてきました。父がひとりでぼちぼち作業しているときも、母か葉瑠☆友幸のどちらかが近くにいましたが、脳腫瘍の位置が小脳だったため、もう平行感覚が保てなくなっていて、椅子から横に倒れるたびに「お~い、起こしてくれ。」と家族を呼ぶ、そんな状態でも父は作業していました。部屋を明るくする目的もあったと思いますが、あとに残る家族が困らないようにと考えての作業だったのかもしれません。
仕事の取引先や家族のために、最後まで父がやり遂げるための体力と気力を神様が与えてくださり、支えてくださったことを思います。
 
母も悪性リンパ腫の抗がん剤治療の3回目が終わり退院してきてすぐ、放射線治療が始まる前でしたが、「台所の6人掛けのテーブルを処分して、レンジやトースターを置く棚(3段)や収納ケースを購入しに行く。入院中にずっと考えていた。」と言った時には驚きました。

2019年1月の入院のあと体重が減り、LLサイズからLサイズへ。服を多く処分したので、母の部屋の入口にあった整理ダンスも処分。(召された後は、ズボンはかなりウエストが違うので処分しましたが、Tシャツやブラウス、ジャケット、靴下、エプロンなどは着ています。当分、買う心配ありません。)
亡くなる前の入院時、間質性肺炎により酸素濃度79と酸素マスクが必要なほどになったときは、病室内のトイレに行ったあとベッドに倒れ込むほどでした。家具の処分を言い出した時(*)、母は放射線治療、肺がん治療と続いた後のこと、息苦しくなったときのこと、介護のことなどを考えて、家の中を移動しやすくしておきたかったのかもしれません。
(*)2019年10月下旬。この時は、肺がん治療ができる予定でした。間質性肺炎の悪化により、家に帰れなくなる、酸素マスクを常時装着することになるなど、想像もしていませんでした。
父が仕事を掛け持ちして、1982年に建てた(一戸建ての)家に、住み続けたい。家が老朽化していくのも見届けたいと言っていました。身体がしんどくても、酸素吸入が24時間必要でも、家に帰って治療を続けたいと、さいごまで望んでいたことと思います。


葉瑠☆友幸も年末から先月まで、5年ぶりの咳喘息になりました。かねてからの胸水もあり、歩いている途中で息苦しくなって立ち止まる時が続き、両親の苦しみを思いました。

父も母も咳や息苦しさ、胸の痛みで眠れない夜もあり、「やっと一日がおわった。やっと朝が来た。」の毎日だったと思います。
私たちの苦しみのとき、主が顧みてくださり支えていてくださる。感謝します。以上です。
 

徳島県の自殺者が昨年1年間で、女性と若者を中心に100名とのNHKニュースを見ました。
原因・動機は健康問題。そして経済・生活問題。交際問題。家庭問題。
どうか重荷を抱えている人に、寄り添ってくれる人が与えられますように。

葉瑠☆友幸はキリスト教の信仰により強められ、主にある交わりにより励まされています。
神様、イエス様とつながり、聖霊が注がれ、力をいただいていることに感謝です。
集会の姉妹が、家で作ったお米で
お粥を炊いて届けて下さったり、いつも気にかけてくださり感謝です。
パソコンやスマホの使い方などで頼ってくださり、家に来てくださったり。集会場に行けない状態の葉瑠☆友幸を元気づけるために、2~5人の少人数での集まりにお声掛けしてくださり、夕食を作ってくださることに感謝です。ひとりで暮らしていても、孤独ではありません。

母が召されて4年となりましたが、「がんばってるね。」とは言えない状況です。
朝食はバナナだけだったりして(お腹の不調のため)、
食事もきちんと摂れず、生活習慣も乱れています。
体調が悪いから、きちんとできない。きちんとできていないから、体調も良くならない。
どうか母のいた頃のように、規則正しい生活に戻れますように。

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2024年1月31日 (水)

家族の歴史

石川県能登半島地震で亡くなられた方(石川県238名)のご家族の皆様に、神様の慰め励ましがありますように。

13秒差でマグニチュード7.3相当が2回発生した可能性があるとのニュースを見ました。
まだ余震が続いています。被災された方々の不安がひとつずつ取り除かれていきますように。

集団避難をされた中学生の皆様が、一緒に避難している学生の方々や周りの方々と共に毎日を快適に過ごせますように。今回のことが新しい力となって将来の命の糧となりますように。

避難生活を送られている方々に、災害義援金や救援物資がじゅうぶん行き渡りますように。
コロナ感染症、インフルエンザ、寒さによる不調などから、守られますように。

停電はおおむね復旧したものの、断水は1ヶ月以上続くとのこと。
神様が皆様を顧みて、支えてくださいますように。

☆●□◆▲▽★○■◇☆●□◆▲▽★○■◇☆●□◆▲▽★○■◇

2019年以来、久しぶりの咳喘息による長い体調不良でした。受動喫煙だけが原因だったのかと思うぐらい、久しぶりでした。祖父や妹の召された時期でもあり、いろいろ思い出されました。

祖父との思い出…1970年12月56歳で召されました。
小さかったので、思い出がありません。両親ともに徳島生まれ、徳島育ちですが、葉瑠☆友幸は父の仕事先、大阪で1969年3月に生まれました。
祖父の体調が悪くなり、
父は勤務先の仕事の段取りがあるので、母と共に一足早く徳島へ帰ってきました。
当時は長屋住まい。孫が泣くたびに胃ガンの痛みに耐えながら、屋外で子守をしてくれていたようです。
父と母は、いとこ結婚(*)なので、子どもの時からの交流があり、婿養子に入りましたが、祖父と父との関係は良かったのでしょう。
「(祖父が亡くなる前に)さいごまでみんなの面倒を見ると、おっさんと約束した。」と、父が言っていたのを思い出します。
(*)
父方の祖父と母方の祖父が異母兄弟。異母のふたりも姉妹どうし。父にとって祖父は、義父であり、叔父でもある関係。

との思い出…1973年5月に生まれ、1974年1月8カ月で召されました。
妹のベビーベッドを覗いている葉瑠☆友幸の写真はありますが、妹の顔はハッキリ映っていません。
妹の写真は、看護師さんの手が下から妹の首を支えてくださっているお風呂での写真しかなく、着物を掛けた合成写真が遺影となりました。
母に聞いたところによると、「女の子は、おしっこの出るところとうんちの出るところのあいだに生理の出るところがある。その❝うんちの出るところ(肛門)と生理の出るところ(膣)のあいだに、もうひとつ穴が空いていて、そこから水分などが漏れ出ていた。オムツを替えても替えてもすぐに濡れた状態になっていた。」とのこと。「(赤ちゃんのため)体重が増えたら手術」の予定だったのですが、間に合いませんでした。最期は体内に水分が一滴も残っていない状態だったと聞いています。

いま言えるのは、妹は(はっきり見える形で)穴が空いていて、葉瑠☆友幸は(目に見えませんが)リンパ管形成不全でザル状態。ふたりとも奇形で生まれ、必要なものが漏れ出ている状態ということですね。
(葉瑠☆友幸自身の診断も1989年だったので、1973年当時に診断がついていたかは不明です。)

祖母との思い出…1997年4月80歳で召されました。
1974年頃に市営住宅へ引っ越し~1982年に父の建てた現在の家に引っ越し。脳梗塞で召されるまで、ずっと4人家族。一緒に住んでいました。

母が躁うつ病で状態が悪い時、母に代わって家事を引き受けてくれました。
杢張り(もくはり)の仕事を長年していました。杢張りというのは、接着剤を塗った板に木目となる木を0.2ミリ程度に薄くスライスしたもの(杢・もく)をアイロンで張り付け、美しい木目を表現する技術のことです。祖母の働いていたところは、雇い主の大将と二人で、鏡台に杢張りをしていました。働いている所へ学校帰りなどに度々お邪魔した時、「良い時に来た。抜いて!」と祖母に言われ、作業中に指に刺さったトゲを針とピンセットで抜いていました。
家ではオセロゲームや、花札などをして遊びました。孫のジグソーパズルに、まったく合っていないところにピースを埋めて、「できたよ。」と言っていたのを思い出します。
葉瑠☆友幸が風邪の時も食事を摂っているのを見て、感心したように「すごいな。きちんと食べて。」と言ってくれていたのを思い出します。

との思い出…2011年5月66歳で召されました。
祖母、父、母、葉瑠☆友幸で旅行に行ったことが、良い思い出です。
思い立ったら即実行で、ゴールデンウイークの初日に突然「行こう!」ということになり、母や祖母が準備に大慌てでした。急いで炊飯器からご飯を出して、お握りにしていました。泊まるところも予約していないので、レンタカーを借り、運転する父以外は、倒した後部座席で寝ながら移動という日もありました。父しか運転できないのに、「次は〇〇行くか? もうちょっと足伸ばして〇〇行くか?」よほど運転や旅行が好きだったのでしょう。葉瑠☆友幸が「〇〇と書いてあるのが見えたら、言えよ。」との父の指示を受け、助手席で地図を見ながら、道路標識を見ながら、合図していました。
父は出張先で指を怪我した時も、救急車の要請が1台で済むように、応急処置だけで、淡路島~大鳴門橋を下りたところまでトラックを運転してきて、鳴門ICで救急車を呼んだようです。トラックは会社の人が取りに行ってくれましたが、高速道路の代金を負担しなくて済むようにと配慮していたようです。あとで聞いて驚きました。機械の試運転中に巻き込まれ、足で蹴飛ばして機械を止め、指はあとすこしで切断かもというほど皮膚がめくれあがっていました。太ももの皮膚を移植したように記憶しています。
葉瑠☆友幸が蛋白漏出性胃腸症の病気を疑われたとき(診断前・帰りの車内で)、「血が濃いとか関係あるのかなぁ(?)」とポツリと父が小声で言ったのが聞こえました。医者には聞いていないと思います。葉瑠☆友幸自身は、二人がいとこ結婚であることは知っていましたが、「いまさら、そんなこと言っても、過去(生まれる前)に戻ることはできない。」と思ったぐらいで、両親が結婚したことが悪いと思ったことはありません。葉瑠☆友幸も両親も、面と向かっては何も言いませんでした。

いとこ結婚・血が濃い云々、および病気との因果関係については、実際に検査をしたり、なにか書物などを調べたりしたわけではありません。「父や母が気にしていた」というだけで、根拠はありません。出生時のデータもありませんし、今後も調べる気持ちも方法もありません。

日本聖書協会『聖書 新共同訳』より引用
エフェソ4章7節「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」
ヨハネ9章3節「イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」」

との思い出…2020年2月73歳で召されました。
葉瑠☆友幸が入院した時、母のハイヒールで歩く足音が待ち遠しかったです。病院の廊下によく響いていました。
母の闘病中に通院に付き合った日は、
バスの時間まで1時間ほど待つあいだに敷地内の喫茶室でお昼を食べ、30分かけて駅まで帰ってくると、そごうの地下でホットコーヒーを飲んで、そして家近くまでまたバスに乗って帰ったことを思い出します。精神科に入院時も、その喫茶室まで家族同伴での外出許可が下りたとき、葉瑠☆友幸が病室へ着くより先に「たこ焼き、食べてもいい?」と主治医に聞いて、オッケーをもらっていたのが良い思い出です。
母はドライヤーが苦手で、家では自然乾燥。2019年1月の入院時に背中まで伸びていた髪を、院内の美容院で肩ぐらいまでカットしました。同年3月の入院時は、母の髪を葉瑠☆友幸がドライヤーで乾かしましたが、カットしてくれていたおかげで楽ちんでした。
「〇〇ジュース▲本、コーヒー▲本。」という注文が、スマホの留守番電話の録音に毎日、朝起きてから着くまでにあり、つぎつぎと再生しては、届けていました。口内炎ができたときには、アイスクリームを届けました。食べているときに、看護師さんが入ってきて、「いいもの食べてるね。」と驚いていました。
また入院中にユリの花を折り紙でたくさん折っていたことも思い出されます。手のしびれがなければ、LINEの使い方を教えたかったです。

葉瑠☆友幸が生まれたころから、母が躁うつ病になり、さらに葉瑠☆友幸や妹の病気のこともあり、両親ともに苦労したと思います。けれども、いとこ結婚したことで周りからいろいろ言われたりしても、父は祖父との約束を果たし、家族を守り抜きました。母は自分を責めて心が疲れた時も多かったことと思います。祖母はそんな母をサポートして葉瑠☆友幸の助けとなってくれました。

葉瑠☆友幸には言えないことが、両親や祖母にはあったかもしれません。
両親には言えないことが葉瑠☆友幸にあって、祖母にだけ打ち明けたこともあるかもしれません。
家族の生きている間には気づかなかったけれども、そんな気がしています。

いろいろあるなかで、助け合って、守り育ててくれたのだと思います。
いま生きづらさを感じている方に、身近な関係でなくても、寄り添ってくださる人が与えられますように。

Ⅱコリント12章9~10節「主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。…なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」

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1月6~7日の冬期聖書集会には、スカイプ参加できました。県外から16名の方が来てくださり、徳島聖書キリスト集会の集会場とスカイプの併用で恵まれた集会となりました。
主題「御言葉の飢饉を克服する道」。読書会「アモス書を読む」では、1章から9章まで9名の方が決められた担当箇所について、10分間ずつ、お話しくださいました。そして25分間、吉村さんがまとめとして話されました。
葉瑠☆友幸は咳き込む時期だったので、参加者の名前の返事をするとき、自己紹介のときはどうにか言えたのですが、感話は「次の方へ、お願いします。」となりました。
感話の時のタイムキーパーも、録音で「時間です。」と言わせていただきました。しかし画面越しに多くの恵みをいただくことができました。

アモス書8章11~12節「見よ、その日が来ればと 主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく 水に渇くことでもなく 主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。人々は海から海へと巡り 北から東へとよろめき歩いて 主の言葉を探し求めるが 見いだすことはできない。」

☆●□◆▲▽★○■◇☆●□◆▲▽★○■◇☆●□◆▲▽★○■◇

今月22日頃から、またお腹の不調が再発しました。水様便まではいかないのですが、軟便。
トイレに行きたいと思ったら、もう待ったなし!という感じです。
きょう、大学病院の消化器内科の診察で、年末からの経過(咳喘息、下痢)を説明。
どうやらずっと下痢が続いていたところへ、咳喘息になり細菌感染を抑えるため抗生剤レボフロキサシン錠 500mgを7日間服用したために、腸内の善い菌(善玉菌)まで一掃されたみたいです。「しばらくかかるね。」とのことでした。先週、大学病院の消化器内科でしていた、便の細菌検査は異常ありませんでした。
整腸剤ミヤBM錠
 毎食後・
1回1錠を処方してもらいました。薬の名前に聞き覚えがあると思ったら、母も抗がん剤治療による下痢の時、服用していました。
以前にも同じようなことがあったようで、2015年5月9日の記事に書いてました。抗菌剤ジェニナック錠という薬の時も、食事のたびに軟便に悩まされたようです。

咳喘息の症状は、昨年12月26日から4週間かかって、やっと治りました。
胸水からか、咳喘息の後遺症(?)か、外を歩いていると、なぜか息苦しさを感じます。
そんなとき、立ち止まって空を見ると、明るいお月さん、きれいな夕焼け、そばには木星、知らぬ間に鳶(とび)まで。
(*^_^*) 休憩しながら、パチリと撮影タイム。
息苦しさの原因は、次回大学病院の呼吸器内科の診察日の2月15日に、レントゲン検査すれば分かると思います。

今回のブログはすこし思い出を書くだけのつもりが、心の内をたくさん書いてしまいました。

皆様もお身体ご自愛ください。

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2024年1月 4日 (木)

能登半島地震 被災者の方々、お祈りしています。

2024年1月1日午後4時10分発生「令和6年 能登半島地震」最大震度7。

石川県能登に大津波警報を、山形県、新潟県上中下越、佐渡、富山県、石川県加賀、福井県、兵庫県北部に津波警報を、北海道、青森県、秋田県、京都府、鳥取県、島根県、山口県、福岡県、佐賀県、壱岐・対馬に津波注意報を発表。
(大津波警報 3m以上(今回は 5m) 津波警報 1~3m 注意報 0.2~1m)

震度7の地震が観測され、津波警報が発令されると、アナウンサーが
大津波警報が出ました!今すぐ逃げること!
近くに高台がなければ、高いビルの上か、海岸から遠く離れたところへ逃げて下さい。
決して、立ち止まったり、 引き返したりしないで下さい。
周りの人にも避難を呼びかけながら、逃げて下さい。あきらめないでください。
と呼びかけられていました。

画面中央上に大きくつなみ!にげて!」「EVACUATE!」「津波(つなみ)!避難(ひなん)!と点滅させて避難を呼びかけていました。

石川県能登の津波の到達予想は5メートルとされていました。
高い津波の場合、斜面を駆け上がり、内陸深くまで流れ込むおそれもあり、何度も押し寄せて予想の高さを超えることがあります。
日本海で発生する津波は、震源が陸地に近いため、地震発生から短時間(7~8分)で津波が沿岸に到達する可能性が高いと言います。
<ニュース報道より引用。>

日本聖書協会『聖書 新共同訳』より引用
詩編 121編1~2節「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。」
1コリント 10章13節「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」

余震も続き、いろいろな不安を抱えて、避難しておられると思いますが、少しでも眠ることができますように。

2テサロニケ 3章16節「平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。」

石川県、富山県、新潟県、福井県、岐阜県、長野県。
震度5弱~震度7の揺れに見舞われた被災地の方々を神様が顧みてくださいますように。

災害弱者と言われる方々に、十分なサポートがなされますように。
苦しみ、痛み、悲しみを一人で抱え込まずに、周りと共有して助け合えますように。
避難生活を送られる方々が、コロナ感染症、インフルエンザ、エコノミークラス症候群、寒さによる不調などから守られますように。

☆●□◆▲▽★○■◇☆●□◆▲▽★○■◇☆●□◆▲▽★○■◇

あけましておめでとうございます。ことしもよろしくおねがいします。

年末12月26日の夕食後ぐらいから、咳が出始めました。熱はありません。
2022年2月処方の咳喘息の薬が残っていたので、服用。
28日(木)は大学病院の定期診察日。レントゲン撮影では肺炎はかかっていませんでした。
レントゲン撮影と採血検査へ行くのに、すごく息苦しく、しんどかったので、点滴室で休ませていただきました。

採血検査では、白血球、炎症反応が上昇していたので、何らかの細菌感染しているとのこと。
脈拍144,酸素94~96。病院でネブライザー吸入をして、薬の追加処方をしてもらい、帰ってきました。

〇残っていた薬
テオロング錠 200mg(朝・夕食後 各1錠)、メプチン錠 50μg(朝食後・寝る前 各1錠)…気管支を拡げ呼吸を楽にする薬。
カルボシステイン錠 500mg(毎食後 各1錠)…痰を出しやすくする薬。
モンテルカスト錠 10mg(寝る前 1錠)
…アレルギーを抑える、喘息を抑える薬。
インタール吸入液 
1% 2mlアレルギーを抑える喘息の吸入薬も処方してもらいました。家にネブライザー吸入器を持っています。

〇12月28日追加処方
レボフロキサシン錠 500mg(夕食後 1錠)
…細菌の感染を抑える薬をもらいました。
ツロブテロールテープ 2mg
咳止めテープは余分に残っています。

〇今日かかりつけ医で、追加の処方。
エピナスチン塩酸塩錠20mg(夕食後 1錠)…鼻水止め。
メジコン錠 15mg(毎食後 各1錠)…咳を鎮める薬。

ステロイド治療中であり、脈拍も頻脈(144)のため、メプチン吸入薬、ステロイド剤入りの点滴はできませんでした。またメプチンエアーも副作用に要注意なので、なるべく使わない。さらに脈が速くなり、動悸などが起こるとのことです。

集会はオンライン参加。あとは病院に行くだけ。うがい・手洗い・消毒を励行。
守っていても、防げませんでした。「免疫が低いからね。」
年末年始は、スーパーマーケットも混むため、早めに食糧を買い出し(さいごの土・日を避けて)しています。昨年は29日(金曜日)に行こうと決めていましたが、その前に感染してしまいました。咳をしながらとなりましたが、29日に1週間前後の買い出しをしてきました。まだ2日分ぐらい、残っています。

大みそかの主日礼拝、元旦礼拝、2日の夕拝には、オンライン参加することができました。

夜は咳き込むので、眠っていても咳で起こされる毎日です。
元日の日も、日中にウトウトしていたら、いつもと違うスマホの通知音が聞こえてきました。
「防災アラート」アプリで地震を知り、「NHK ニュース・防災」アプリをひらき「総合テレビのニュース同時提供」で詳しく知りました。

お祈りしています。

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2023年12月25日 (月)

クリスマス特別集会

今年もあと一週間。体調は守られていますか。
葉瑠☆友幸は、あいかわらず軟便と下痢が続いています。
一日のうち、3回続いたら、頓服を飲むようにしています。
頓服を飲んだら、2日ぐらい治まり、そしてまた軟便から、だんだん下痢へ。の繰り返しです。


※ 写真は、家の近くの教会で撮影したものです。

昨日はオンライン参加でしたが、クリスマス特別集会でした。

プログラムの最後に、感話会があって、ひとり3分以内で1年を通しての感話を話しました。
賛美、楽器演奏(ピアノ、オカリナ、ハーモニカ、カリンバなど)、聖句を読まれる方もいました。
大病を経験された方、手術をされた方、悲しい別れを経験した方のお話もありました。

なかなか集会場で以前のように集まることができないですが、スカイプとの併用で非常に恵まれた集会でした。

 
※ 写真は、かかりつけ薬局で撮影したものです。

葉瑠☆友幸の話した内容です。一部、加筆。

持病およびステロイド治療による免疫力低下のため、ことし1年もスカイプによる参加でした。
お腹の調子も悪いので、体調面を見ると、元気とは言えないのですが、以前のように喘息で礼拝をお休みしたり、入院することもなかったので、神様のお守りの中、過ごせた1年と言えます。神様のお守りに感謝します。
今月15日、病院から帰るのが遅くなったのですが、3階建て校舎より低い位置の建物と建物の間に、三日月を見ることができました。
時間や位置によっては、見えなかったかもしれないと思うと、神様に感謝です。
信仰がなければ、立ち止まって見ることはなかったかもしれません。最高気温2℃と寒い日だったので、急いで帰っていたと思います。

最近は月と木星が並んで、夕方に見えます。早朝は明けの明星、金星が見えます。神様からの恵みに感謝します。

日本聖書協会『聖書 新共同訳』より引用
第一ペトロの手紙4章10節「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」

いまの状況で、これからも神様に用いていただけるように、導かれていきたいと思います。
徳島聖書キリスト集会の方々やSkypeで参加されている方々のこの1年のお交わりにも感謝します。いつもご心配ありがとうございます。

イエス・キリストご生誕の地とされるヨルダン川西岸のパレスチナ自治区ベツレヘム。
多くの行事が取りやめとなる中、「聖誕教会」で恒例のミサが開かれました。
いまも生きておられるイエス様も、その場にいて、悲しい気持ちで聞いておられたことでしょう。どうか祈りが聞かれますように。

自分の中にある罪に気付き、十字架のイエスを仰ぎ、罪の赦しを神様に求めることができますように。
御心に適った行ないを一人一人ができますように。
世界中の人々の祈りが聞かれ、神様から平和をいただき、共に祝う日がきますように。

悪を行なう指導者から、悪の霊が取り除かれますように。戦争が1日でも早く終わりを迎えますように。
ウクライナ、ロシア、イスラエル、パレスチナ・ガザ地区。戦争で苦しんでいる人たちに、主の平安がありますように。 

☆●□◆▲▽★○■◇☆●□◆▲▽★○■◇☆●□◆▲▽★○■◇

年末の忙しいとき、悪は狙っています。
ニュースでも、いろいろな詐欺が流行しているので、注意喚起していました。
振り込め詐欺にご注意ください。
誤ったサイトへ誘導されませんように。
どうか、あらゆる悪から、神様が守ってくださいますように。

第一テサロニケ5章21~23節「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。」

神様から与えられた、本当によいものを堅く守っていけますように。

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